熊本地震から7日間の記憶
2017.12.21
2016年4月に起きた熊本地震の記憶が残っているうちに文字でまとめておきます。
※思い出したくない方は読まないほうがいいかもしれません。筆者は熊本市内にて2回の揺れ(14日前震・16日本震)のどちらも自宅(3階)にいる時に遭遇しました。
4月14日木曜日
4月14日木曜日、いつものように仕事を終えて帰宅して、部屋に荷物を置き、洗面所で手を洗って出てきたその時、大きな横揺れ。
これはちょっと普通じゃないぞ、とドアに掴まりながら部屋の方を見ると、棚に並んでいた大量のCDたちが滝のように落下していく。
子供の頃から地震は何度も経験していますが、こんな揺れ方は初めてで。
やばい
— ユニーニ (@yogurtetkinoko) April 14, 2016
でもまだその時は、そこまで重大さの実感はなく、ただただ唖然として「ああ……片付けが面倒だな……」くらいの気持ちでいたのでした。
ひとまず職場に無事を連絡したのち、情報を集めようと思ってTwitterを開くと……「震度6!? 7!?」みたいなツイートが飛び交っている。さらに、県外の知り合いたちから心配のリプライが次々と届き始める。
もしかして、熊本大変なことになっているのではないか……と、そこでようやく事の重大さが実感となって掴めてきます。
そして再び大きな揺れ!
これが余震というやつか……。
その後の情報で、最も揺れが大きかった益城が震度6以上。筆者の住む熊本市内は震度5強であったことが判明。これからしばらく大変そうだなと、一気に不安が押し寄せます。
Twitterを見ると、阪神や東北の震災経験者の方たちが、様々な役立つ情報を流してくれていました。
・しばらく水道が止まるかもしれないので、湯船にためられるだけ水をためておく。
・電気が生きているなら米を多めに炊いておくとよい。
・余震が続くので万が一の時はすぐに避難できるよう貴重品はバッグに入れてまとめておく。
なるほど確かに!
すぐに湯船に水をためて、炊飯器にタイ米を三合……そういえば冷蔵庫には鶏肉がある……せっかくなので一緒に炊いてしまおう! というわけで、鶏がらスープを入れて簡易カオマンガイを作ったのでした。
アドバイスにしたがって電気と水が生きてるうちに米を炊けるだけ炊いたけどなかなか食べる気分にもなれませんね…
— ユニーニ (@yogurtetkinoko) April 14, 2016
数分おきに小中規模の揺れが続くので、段々と「酔う」ような感覚になり、緊張感と疲れで食欲も出ない……。
しばらくこんな感じなら片付けはまだ待ったほうがよさそうだ、ということで、棚から落ちたCDたちはとりあえず床に一箇所にまとめて置いておくことに。また、奇跡的に無事だった食器類も、高いところに置いておくのが不安だったので主要なものはすべて床の上に移動しました。
4月15日金曜日
結局ほとんど眠れぬまま夜が明けて金曜日。近所の民家もそれほど目立った被害はない様子。仕事は休みになりましたが、このまま一人で家にいても不安なので、とりあえず様子を見るために職場へ。
オフィスは物も少なく、机も椅子も重くて丈夫なので、ほとんど何のダメージもなくて一安心。
コンビニにはすでに食糧難が訪れていたので、昼食はハーゲンダッツとレッドブルで済ませました。
おにぎりパン弁当類は絶滅していた
— ユニーニ (@yogurtetkinoko) April 15, 2016
相変わらずの余震と睡眠不足に耐えながら、夜まで過ごして帰宅。
さすがに疲れたので早々と眠る準備。
万が一に備え、財布とiPhoneはバッグに入れて枕元に置き、部屋の明かりは点けたまま、あっという間に就寝……。
4月16日土曜日
日付が変わって深夜、激しい横揺れで目が覚める。
「ああ……また余震か……」と思いきや、そんなレベルではなく。
何かが落ちる音……ベッドが床を滑るように揺れている。
これはやばいやつだ。
そして突然電気が消えて、真っ暗に。
まだ揺れている……終わらない……部屋の窓がいきなり勝手に開く(←これ一番恐怖でした)……外から騒ぎ声が聞こえる……
本気でこのまま建物ごと倒れると思ったので、ベッドの枠(金属製で丈夫)の中にどうやって入り込もうかなどと考えたりもしました。
ようやく揺れが少し弱まり動ける状態に。
「外に出なくては」
しかし……問題発生! 枕元に置いていたはずの眼鏡が無い!? 停電で部屋は暗闇……焦ってひたすら手探りで床を探し回るも、どこにも見つからない……!
ようやく判断力が戻ってきて、iPhoneのライトがあることを思い出し、点灯! 眼鏡はすぐ手の届くところに落ちていました。焦りは禁物です。
貴重品を入れたバッグを持って、上着を着て、部屋を出ようとすると今度は部屋のドアが開かない!? もう勘弁して……
ライトで隙間を照らしてみると、どうやらドアの横の冷蔵庫の上に置いていた電子レンジが落下して、ドアを塞いでしまっているようです。
電子レンジでよかった……なんとか押して動かせる重さだったので、どうにか隙間を作って難関突破!
バスルームの前に来ると、床が濡れていることに気づきます。
なんということでしょう……断水に備えて湯船に溜めていた水が、今回の揺れで溢れ出てしまっているのでした。
今はもう気にせず出るしかありません。
玄関のところで、ふと「避難する際はブレーカーを落とすこと」というツイートを見たことを思い出し、冷静にスイッチオフ。
ようやく外へ! そこで部屋の鍵を持っていないことに気づくも、もはや探しに戻るような余裕はなく。
3階から下までアパートの階段を降りるのに物凄く緊張したのを覚えています。
無事に地上へとたどり着き、人々の声がするほうへ。
向かいの民家のブロック塀が崩れて道にコンクリートの破片が散乱していました。
人の流れに合流し、近所の大学のグラウンドへと向かいます。
歩きながら実家に電話。こんな時でも普通に繋がる現代文明は本当に凄い。何を話したかは全く覚えていません。
さすがに終わったと思った
熊大に避難してます— ユニーニ (@yogurtetkinoko) April 15, 2016
大学のグラウンドには既に多くの人が集まっていました。数年ぶりの母校……こんな形で訪れることになるとは。
電気が復活し、グラウンドの照明灯が点いたかと思えば、また大きな揺れが来て、停電。遠くで何かが崩れるような音が聞こえて、その度に「うちのアパートではないか」と不安に襲われる。
Twitterで連絡を取り合い、近所に住む友人夫婦らと合流したことで、少しだけ安心感。ネットでニュースをチェックすると、熊本市内は震度6弱だったとの報道。
大学の体育館が解放されるも、子供とお年寄り優先ということで、とりあえず朝までグラウンドで過ごすことに。
大学エリアなので若い学生が多く、グラウンドにはわりと活気があった……と言うと語弊がありますが、少なくとも「重い」空気ではなかったのが救いでした。
夜明け前、車で避難してきた別の友人夫婦の提案で、車の中で少し休むことに。
朝が来て、一旦自宅の様子を見に各自帰宅。
果たして建物は……無事でした! よかった!
鍵をかけずに出てきたことも心配でしたが、どんなに凄腕の大泥棒でも、さすがに昨夜の揺れの中、この3階建ての建物に入れる者はいなかったでしょう。
ドアを開けると、そこには壮絶な風景が広がっていました。
昨夜は停電の暗闇で見えなかった惨状……炊飯器が落下して、前日に多めに炊いておいた簡易カオマンガイが無残にもキッチンの床に散乱。わらび餅粉の袋が破れて、棚が白い粉まみれ。傾いて扉が開いたままの冷蔵庫。
床に置いていたCDの山が崩れて広がった上に、棚が倒れて被さっている。壁沿いにあったベッドは部屋の真ん中に斜めにセッティングされていました。
バスルームの前はやっぱり水浸し。湯船いっぱいに溜めていた水は、3分の1くらいにまで減っていました。
とりあえず状況だけ確認して、しっかり戸締りをしてから再び大学のグラウンドへ。
友人と合流し、連日の寝不足でとにかく眠いので、グラウンドに敷かれたブルーシートの上で昼寝。
午後。体育館に余裕ができたとのことで、入って中で休むことに。
壁に貼られた号外の新聞記事が生々しい。
夜からは雨の予報。
夜。パンの配給があり、ここは「被災地」になったのだということを実感。
それにしても感心したのは、大学の学生団体による避難所運営の見事さ。留学生なども多くいる地域。日本語、英語、中国語、3ヶ国語でのアナウンス。的確な誘導。見回りながらの明るい声かけ。若いとはなんと素晴らしいことでしょう。本当に感謝。
学生団体スタッフが有能すぎてチップをあげたくなるレベル
— ユニーニ (@yogurtetkinoko) April 16, 2016
動き出す日常
結果的に避難所にはそれから3泊お世話になりました。昼間は自宅や職場の片付けなどをして、夜は友人たちと合流して避難所で過ごすというスケジュール。自宅の電気は復活したものの、水道とガスは止まっており、ペットボトルにためていた水で濡れタオルにして体を洗ったり。
熊本を離れて長崎に里帰りする友人夫婦が温かい料理を持って来てくれたのは神でした。
相変わらず続く余震。ニュースを見れば、各地の大変な状況が伝わってくる。
それでも熊本市内は少しずつ日常回復に向けて動き出しつつありました。避難所の運営も、あの素晴らしかった学生団体から市職員にバトンタッチして規模も縮小。本震から4日が過ぎ、久々に自宅で過ごす夜。それでもまだ、コンビニにパンやおにぎりは足りていない。
幸いにも自分は一人暮らしで、家族は皆県外。会社も状況が落ち着くまでは自由出勤。このまま余震に精神を擦り減らしながら貴重な物資を消費する一人で居るよりは、しばらく熊本を離れるのも一つの道ではないか。
旅に出る
福岡行きのJRが復旧したというニュースを確認し、出発を決意。
航空券を取り、ホテルを予約し、朝から熊本駅へ。確かに電車は動いていた!
福岡空港に到着し、当たり前の日常の風景がそこにあることに、なんともいえない懐かしさと感動を覚えるのでした。
ターミナルビル2階のレストランでモーニングセットを注文……ただのトーストとスクランブルエッグが、なんと眩しく見えることでしょうか。
平和な日常がある pic.twitter.com/EQonyd8OI5
— ユニーニ (@yogurtetkinoko) April 21, 2016
生きている! VIVRE!
飛行機に乗って1時間半。辿り着いた場所は、沖縄、那覇空港。
4月下旬、そこはもう夏でした。
まとめ
以上、熊本地震から7日間の長い長い日々の記憶の振り返りでした。色々ありすぎて細かい時系列などが飛んでしまっている部分も多々あります。
自分が住んでいた熊本市内は震度6弱。最も被害の大きかった益城が震度7だったので、それに比べると全然被害は少なかったほうですが、それでも潰れた建物や倒れた塀や落ちた壁は数知れず、また熊本城も大きな被害を受けました。
自宅は壁に所々ヒビが入ったのと、窓ガラス1枚が割れていました。
運が良かったのは、14日の最初の地震があった時点で、余震に備えて食器類をほとんど床の上の広い場所に移動していたので、16日の本震では小さな器1つとグラス1つが割れただけで済んだこと。これは完全にTwitterで見かけた阪神や東北の震災経験者の方たちの「余震を甘く見てはいけない」との声に従った結果なので、あらためて感謝したいところです。やはり学んだ経験は伝えていかねばなりません。
また、Twitterでのリプライもとても心強いものでした。普段全くやり取りのない方や、一度も会ったことのないフォロワーさんが直接心配や応援のメッセージをくれたりもして、本当にありがたかった……。遅くなりましたが、少しでも気にかけてくださった全ての皆さまに、あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。
精神的に最も消耗させられたのは、やはり二夜連続で大きな地震を経験してしまったことで「二度あることは三度ある」という不安が消せないくらいに大きくなってしまったこと。
1か月くらいの間ずっと「近いうちにもう一回最後にとんでもない規模の揺れが来るに違いない」という不安とともに暮らすことになり、余震の度に緊張が走り、部屋に高さのあるものを置いておくのが怖いので、しばらくは机も椅子も出さずに床で生活していました。
また、避難所で過ごしたり被災地で生活していると、ある種の一体感のようなものが生まれてくるので、一人でそこを抜け出して遠くへ避難することに、妙な罪悪感があったりもしました。ボランティアで働いてくれてる人もいるのに……的な。
しかしそれも見方を変えれば、一人分の食料や水や毛布を他の誰かに回せるということでもあり、余震や連日のショッキングな報道にやられて心も体も疲れ果ててしまう前に、しっかり休める場所で体力回復させてから復興に臨むこともできる、みたいなことを書かれている人がいて、なるほどと安心させられたのでした。それぞれのやり方で、前向きに進んでいくことが何より大切です。
思えばあれから1年と8か月。
余震慣れしていた頃は、震度4くらいじゃ何も驚かない体になってしまっていましたが、すっかり落ち着いた今では、震度2くらいでも反応してしまいますね。少しでも揺れるとやっぱり思い出します。
常に備え、日々を大切に生きましょう。